二本松、母成峠から十六橋の戦い。白虎隊出陣までのお話

 

こんばんは。
このブログをご覧くださいまして、ありがとうございます。

約一週間ぶりの記事追加ですね。
先週はゴールデンウィークだったため毎日更新できたのですが、連休が終わったら、労働時間14時間の日々で、なかなか書いてる暇がありませんでした^^;

さて、前回は塔のへつりにある、「へつりガーデン」で会津名物「ソースカツどん」を食べた話でした。
今回は、お腹もいっぱいになったということで、会津若松市に戻り、「飯盛山」を訪れたときのお話です。

 

〇 塔のへつりから飯盛山へ

お昼ご飯を食べ終えた管理人、車に乗り込んで、国道118号線を一路北へ向かいます。
途中には、若郷湖というダム湖や、芦ノ牧温泉があったりします。

会津市内に入って、県道64号線に乗り換え、案内板に従って細めの道を進むと、飯盛山にたどり着きます。
飯盛山は人気の観光スポットのようで、駐車場付きのお土産屋さんがたくさんありますが、管理人は、飯盛山への入り口すぐ近くにあった市営駐車場に止めることができました。
時間は14:30頃だったでしょうか。車を降りて、飯盛山入口へ、そこから見た飯盛山です。

 

〇 会津戦争の始まりと白河の戦い

この飯盛山、解説の必要はないでしょうが、念のため書いておくと、戊辰戦争の際に、16~17歳の会津藩の少年たちで編成された部隊、白虎隊の隊士たちが、この山の中腹で自刃した場所として有名な山です。

ここで、毎度のごとくの歴史について記しておきますね(また長くなるんだろうな^^;)。
今回は、初めての試みとして、地図をつけてみたので、参照してみてください。

丸に・3つのマークは城、丸に×のマークは戦場です。

 

1868年6月(当時は旧暦でしたが、新暦で記載しています)、明治新政府は、福島県白河市(地図上だと、猪苗代湖の南になります)に部隊を進めます。
天皇への恭順は示すものの、新政府は認めない会津藩とこれを助けようとする、仙台伊達藩を中心に結成された奥羽越列藩同盟を討伐するためです。

新政府軍は、まず、東北諸藩が守っていた白河小峰城を落とします。
白河小峰城がある白河市は、東北への入り口であったため、ここを奪回すべく、会津藩を含む東北諸藩は兵力を白河小峰城に集中させます。

新政府軍はその隙を突き、板垣退助率いる部隊が白河市の南東、棚倉町にあった棚倉藩棚倉城を落とし、棚倉町の北にあった三春藩を降伏させます。
9月には、さらに北に進んで二本松市にあった二本松藩を攻撃します。

 

〇 二本松の戦いと二本松少年隊

この二本松藩と新政府軍の戦いは激戦となりました。
新政府軍が迫ったとき、二本松藩では、会津を見捨てて降伏するか、東北諸藩との盟約を守って戦闘かで激論が交わされました。
この時、二本松藩を指導していた家老、丹羽富穀は「死を賭して信義を守るは武士の本懐」と言って藩論をまとめ、二本松藩は戦うことを選択します。

二本松藩は籠城の準備を進めますが、石高は10万石ほどであるため、動員できる兵力は多くても2,000~2,500程度。
そこで、二本松藩は老年兵に加え、12歳~17歳の少年も徴兵して戦闘にあたりました(二本松少年隊)。

二本松藩は南から進撃してくる板垣退助隊を城外に築いた陣地で食い止めます。
しかし、新政府軍の別動隊は阿武隈川を渡って、手薄な東側から攻撃を開始、二本松城まで攻め寄せてしまいます。

また、板垣隊を押しとどめていた部隊も、激しい砲撃でついに壊滅してしまい、二本松藩は二本松城に追い詰められます。
ここに到り、二本松藩の首脳陣は城に火を放って自刃し、二本松藩は降伏しました。
この時、二本松少年隊は場外に取り残されていて、首脳部からの命令を受け取ることができなかったため、二本松藩の降伏後も新政府軍への抵抗を続けて多くの戦死者を出したのでした。

新政府軍側で従軍していた、後に日露戦争で第4軍を率いた野津道貫が「戊辰戦争中第一の激戦」と称するほどの激しいものだったそうです。

 

〇 母成峠の戦いと十六橋の戦い

さて、この二本松藩の制圧により、新政府側は、東北諸藩の中で最大の勢力である仙台藩、旧幕府勢力の象徴会津藩、どちらにも攻めることができる状態になりました。
激論の末、会津藩を攻略することに決した新政府軍は、会津藩に入る街道の内、遠回りにはなるものの、防備が薄い母成峠に軍を進めます。
この動きを見た会津藩側も、急ぎ母成峠に兵力を割きます。

この母成峠に割かれた兵力が、大鳥圭介率いる旧幕府軍。
その中には土方歳三率いる新選組もいました。

10月、母成峠で、会津藩側と新政府軍の戦闘が開始されます。
会津藩側は大鳥圭介の指揮の下に善戦しますが、兵力、火力の劣勢は覆い難く、1日で勝敗は決し、会津藩側は会津に向かって敗走します。

一方の新政府側は、母成峠を突破すると会津へ向かって素早く前進し、翌日には南下して猪苗代に到着し、そこから西に向かって会津を目指します。
これに対し、逃げる会津藩兵は、新政府軍の進撃を遅らせて、籠城戦の準備をするために、会津に向かうには必ず通らなければならない、猪苗代湖から北西の方角に流れる日橋川にかかっている、十六橋という石橋を破壊しようとします。

しかし、石橋であったため、破壊作業は難航します。
さらに、この十六橋が破壊される前に、橋を抑えようと猛進撃していた新政府軍が橋の破壊作業中に到達し、この橋をめぐって激しい戦いが行われますが、新政府軍の攻撃に会津側は持ちこたえられず、橋の破壊を断念して撤退します(十六橋の戦い)。

 

〇 白虎隊出陣

十六橋の破壊失敗は、会津藩に深刻な問題を引き起こしました。
会津藩は、関東・北陸から会津に向かうには最短距離となる白河や新潟方面からの新政府軍の侵攻を想定していたため、兵力を西や南の国境線に配置していました。
また、籠城戦の準備も終わっていません。

そのような状態の中、会津若松城まで指呼の距離、しかも、間には峠などの進撃を阻むような障害のないところにまで新政府軍の進出を許してしまったのです。
このまま新政府軍の接近を許してしまえば、会津藩の敗北は必至。
そこで、松平容保は新政府軍の会津城下進行を食い止めるため、予備兵力を動員して迎撃に出ることを決断します。

この時動員された部隊の一つが、白虎隊でした。
白虎隊は16~17歳の武家の男子で編成された部隊で、その身分により、士中一番隊・二番隊、寄合一番隊・二番隊、足軽隊に分かれていました。
このうち、飯盛山で自害したのは士中二番隊に所属していた少年たちでした。

ただ、松平容保は、やはり、少年兵を前線に出すのは忍びなかったのでしょう。
最初は彼らを自らがいる本陣において予備兵力としておきました。
しかし、戦況が悪化すると、士中二番隊を戸ノ口原の前線に派遣します。
ここで白虎隊は奮戦しますが、いかんせん、人数も武器も経験も新政府軍が圧倒的に上回っており、撤退のやむなきに至ります。

そして、ここから、飯盛山での悲劇に繋がっていくのですが、それは次回の記事で語りたいと思います。

 

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