戸ノ口原の戦い、そして白虎隊自刃の地、飯盛山へ

 

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さて、前回は飯盛山のお話、の前の、会津戦争史的なお話で、白河口の戦いから、二本松藩の降伏、母成峠の戦い、そして戸ノ口原の戦いにいたるまでを簡単に書いてきました。
今回は、戸ノ口原の戦いから白虎隊の自刃までを書いていきたいと思います。

 

〇 戸ノ口原の戦い

母成峠を突破して会津に迫る新政府軍の会津侵入を防ぐために松平容保は出陣し、会津若松城の北東にある滝沢村に本陣を構えます。
こちらが、その松平容保の本陣です。

こちらは、元々は参勤交代の際の会津藩主の休息所でしたが、この時はここを戦闘のための陣屋として使用しました。
予備戦力としてこの本陣に詰めていた白虎隊も、戦況の悪化を受けて、1868年10月7日(新暦)、ここから戸ノ口原へ出陣します。

飯盛山での自刃で有名な白虎隊には、5つの部隊があり、自刃したのはそのうちの一つ、「白虎士中二番隊」で、彼らを率いたのは日向内記という人でした。
日向は白虎士中二番隊を率いて戸ノ口原を望む小高い山まで進軍し、ここで、部隊に待機を命じます。
隊士たちは、冷たい雨が降る中、近くの部隊から分けてもらったおにぎりを食べて、戦闘に備えます。

この時、隊長の日向は軍議のため、単身部隊を離れるのですが、その後、いつまでたっても戻ってきませんでした。
翌10月8日早朝、新政府軍が進撃を開始しますが、この時になっても隊長の日向は戻ってきません。
そこで、隊士たちは、副隊長格の原田克吉の指揮の下、新政府軍を迎え撃つことに決めて、茂みの中に隠れ、会津へ向かう新政府軍への攻撃を開始します。

しかし、白虎隊の持っていた武器はゲベール銃という、この時代からは100年以上前にオランダで制式採用された旧式の銃で、鉄砲の筒先から弾込めをする火縄銃から一歩進化しただけの銃
それに対して、新政府軍が使用していたのは、この時から1853年にイギリスで制式採用されていた先込め・ライフルのミニエー銃で、射程距離はゲベール銃の10倍
命中精度・殺傷能力も高かったこと、それ以外にも、戦闘の経験値などにおいても新政府軍側が優位にあり、白虎士中二番隊は撤退を余儀なくされます。

 

〇 戸ノ口堰用水を通って飯盛山へ

この時、新政府軍側の攻撃による混乱からか、隊士たちはいくつかのグループに分かれて退却することになります。
このうち、篠田儀三郎という少年が率いていたグループは、新政府軍を避けて若松城へ入るため、戸ノ口堰用水を通っての撤退を敢行します。

戸ノ口堰用水というのは、猪苗代湖から会津若松まで引かれた用水路のことで、1623年から断続的に工事が進められ、1693年に始まった工事で会津若松まで水路が開かれました。
しかし、この用水路は山間部を通っており、土砂崩れなどにより水が通らなくなる、ということがありました。
そのため、1835年に会津藩は戸ノ口堰を改修し、併せて、それまでは飯盛山の北西にある水路を通っていたものを、飯盛山に約170メートルの長さの洞窟を穿ちました。
その、飯盛山側の出口がこちらです。

こちら、その出口のアップになります。

白虎士中二番隊は、この狭い、暗い洞窟を通って城下を目指したのです。
新暦に直すと10月、最近は温暖化の影響か、10月になっても東京は暑いですが、当時、当地の水はとても冷たく、また、こんな狭い洞窟を、戦闘で傷ついた体で潜り抜けたのですから、その精神力は並外れたものだったのでしょう。

 

〇 飯盛山

この用水路から少し歩くと、飯盛山の中腹に着きます。
飯盛山に着いた隊士たちはそこからお城の方角を見ます。こちらがその眺めです。

管理人の技術の関係で、写りがよくないですが、写真の中央にある、左右に広がる緑色のところ、ここが会津若松城です。
この写真では確認できませんが、実際には、会津若松城の天守閣を視認できます。ただし、驚く程、小さくしか見えません

よく言われる白虎隊の話としては、この時、城下での戦闘により火災が発生し、城がその炎と煙に包まれているように見え、落城したと誤解した隊士たちは、城と運命を共にするべく、自刃して果てた、というものです。
しかし、この時自刃した人の中で奇跡的に生還した隊士の飯沼貞吉の回想によると、城下が火に包まれているのを確認した彼らは、敵中を突破し、城に戻って戦おうとする者と、敵陣に切り込んで玉砕しようとする者との間で激論が交わされたが、いずれを選択しても、自分たちの状況を考えると、それを達成することは難しく、敵に捕まり生き恥をさらすのであれば、潔く自害した方がよい、との結論に至り、城が焼け落ちていないことは知っていたが、隊士たちは自害を選んだのだそうです。

確かに、天守ははるか遠くに小さく見えるのみですが、天守が燃えているかいないかは分かったと思います。
また、城下の火災で炎と煙が発生していたのなら天守閣は見えず、落城したかどうかもわからなかったでしょう。

士中二番隊というのは、会津藩の中でも高禄の武士の子弟で編成された部隊、藩校日新館で教育を受けた優秀な武士たちでした。
だからこそ、170メートルもある暗く狭い洞窟を潜り抜けてこられたのでしょう。
そうした人たちが、城下の火災を落城の火煙と見間違える、ということはあまりないのでは?と思われました。

もちろん、当事者の証言が必ず正しいとも言い切れはしませんし、非常時には考えもつかないことが起きたりもするものです。
しかし、先ほどの洞窟や、飯盛山からの眺め、白虎隊の隊士の来歴などを考えると、落城していないことは知っていたけれども、敵の手に落ちるよりは潔く自害を選んだ、というのが真実のような気がします。

。。。この自害した場所と、洞窟の間に自害した20名のお墓と、第二次大戦中に、イタリアのムッソリーニから贈られた記念碑と、ドイツから贈られた記念碑が立っています。
自害した隊士に敬意を表して、写真はなしです。
戦争がない世界を作ります、と心に想いながら、お線香を捧げ、手を合わせました。

 

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