野口英世青春通り、清水屋旅館、嘉永蔵を巡って居酒屋会津へ

 

こんばんは☆
このブログをご覧くださいまして、ありがとうございます。

 

前回は、会津若松城を見学したお話でした。

上田城に比べると、圧倒的に少ない文字数で終わりました。
これはひとえに、残っている写真の枚数によるものです。

上田城は、実家から近くて、写真を撮り忘れていても、後から訪れて補うことができたから、色々と詳しく書けました。
ですが、会津の方は、私が誤って消してしまったのか、残っている写真が少なくて、記事内容を膨らませることができなかったのです。
さすがに会津は遠いので、追加で写真を撮りに行こうと気軽に出かけるわけにもいかなかったため、あれくらいの内容になりました。

まあ、あれくらいの量がちょうどいいのかもしれませんが^^;

 

Contents

〇 野口英世青春通りと會陽医院

さて、今回は会津若松城見学の後、こちらがメインのお店調査です。

この日、管理人が予約しておいたお宿は、「ホテル ニューパレス」。
会津若松城まで、たぶん、歩いて10分ほどのところにあるホテルで、チェックインして車をここに停めてから城に行けばよかった、とチェックインしてから思った便利な立地のホテルです。

こちらのホテルは「野口英世青春通り」という、千円札の人の名前に因んで命名された通り沿いにあります。
この通りの反対側には、「野口英世青春広場」という、千円札の人の像が立ち、B級グルメの屋台が並ぶイベント会場があります(写真は撮り忘れました)。

通りの名の由来は、幼いころに負った大やけどで左手の指が癒着していた野口英世が、この通りにあった「會陽医院」で手術を受けて左手の指が使えるようになり、そのことに感銘を受けて医者になることを志し、その會陽医院の院長であった渡部鼎の書生となって勉学に励んだためです。

その會陽医院がこちら。

現在は、1階はカフェ、2階は野口英世青春館となっています。

 

〇 清水屋旅館跡と吉田松陰

この辺りは「中町」というところで、江戸時代は「老町(おとなまち)」と呼ばれ、商人や職人が住んでいた町だったそうです。
今も商店が多く、先ほどの會陽医院などのように、明治のころの趣を残した建物や、歴史をしのばせる碑などがあります。

たとえば、

こちらは「清水屋旅館」跡です。

現在は銀行の支店となっていますが、江戸時代から昭和初年まで、ここには「清水屋」という格式の高い宿屋があったそうで、案内板に写真があるように、吉田松陰、土方歳三、新島襄・八重夫妻が宿泊したそうです。

 

吉田松陰は、1852年、22歳の時に会津を訪れ、特に、会津藩の藩校(会津藩が自藩の武士の指定に教育を施すために設立した学校のこと)である「日新館」に興味を持ったようで、2度、訪れたそうです。
ちなみに、江戸時代は、武士も庶民も(伊勢参りなどの例外はあるものの)自由に旅行をすることはできず、諸国を旅行するときには自分が所属する藩から「手形」を発行してもらう必要がありました。

江戸時代の「」は、江戸幕府の支配下に置かれているものの、一種の独立国のような存在であったため、「手形」は今でいう、パスポートに相当していました。
ちなみに、「藩」という言葉は、江戸時代にはごく一部の人が使っていただけで、~藩などとは呼ばずに、『(名字)+(官職名)様御家中』などと呼んでいたそうです。
幕末の会津藩であれば、藩主の松平容保が左近衛権中将だったので、おそらくは、『松平中将様御家中』というような感じでしょうか。

この時の旅行、吉田松陰は他藩の武士たちと一緒に行ったのですが、出発日の約束の日までに手形が発行されず、出発日の約束を守るため、手形の発行を待たずに出発してしまったのだそうです。
この当時、藩の許可なく旅行をすれば、それは「脱藩」と呼ばれ、死罪になることもある重大な行為でした。
実際、吉田松陰は旅から戻ると、武士の身分を奪われ、藩からもらっていた給料(と言っても、現代の給料とは違って、悪いことをしなければ、子々孫々に受け継がれていきます)も没収という処分を受けています。

 

〇 土方歳三、新島襄・八重と清水屋旅館

話がだいぶそれましたが、吉田松陰が会津を去ってから16年後、1868年に訪れたのが、新選組の副長、土方歳三です。

1868年5月、土方歳三率いる新選組は、他の旧幕府軍とともに宇都宮城を攻めて、これを落としました。
しかし、すぐに新政府側の攻撃が始まり、激しい戦闘の末、旧幕府側は敗退して会津に向かうことになるのですが、この時の戦闘で土方歳三は足を負傷します。
その負傷した足を治療するために逗留していたのがこちらの「清水屋」だったそうです。

この清水屋で約3か月間、治療に専念した土方歳三は、回復後の8月に、会津へ攻め入ろうとする新政府軍を迎え撃つために行われた「母成峠の戦い」に出陣します。
しかし、衆寡敵せず、新政府軍は母成峠を突破して会津に侵入。
迎撃に出た松平容保らの部隊も破って一気に会津若松城へ押し寄せます。

土方歳三は援軍を求めて、当時、新政府軍と戦っても負け知らずだった庄内藩(山形県)に向かいます。
しかし、庄内藩は隣接する久保田(秋田)藩や、これを支援する薩長肥の軍勢と交戦中であったことから援軍を断られ、結局、同年9月に会津藩は降伏します。

土方歳三はその後、仙台で旧幕府海軍総裁榎本武揚と合流して函館に向かい、「蝦夷共和国」を樹立、これを認めない新政府軍との間で函館戦争が始まります。
宮古湾海戦、二股口の戦いで土方歳三は奮戦しますが、時世には抗いがたく、五稜郭に追い詰められ、1869年5月、五稜郭への総攻撃を開始した新政府軍に対して撃って出て、戦死します。

…あれ、長くなっちゃった^^;

どうも、幕末とか、戦国時代の話題になると、あれこれ書きたくなっちゃいまして^^;;

 

さて、土方歳三が会津を去ってから14年後の1882年、新島襄・八重夫妻が結婚後初めて、会津を訪れます。
この時は1か月ほど、この清水屋に泊まっていたそうです。

そんな、歴史ある旅館が清水屋でしたが、残念ながら、昭和初年に取り壊されたそうです。

 

〇 末廣酒造「嘉永蔵

この清水屋跡から少し離れたところ、日新町というところには、

銘酒「末廣」を造っている「末廣酒造」さんがあります。
こちらは、創業嘉永3年(1850年)だそうで、そこから「嘉永蔵」と呼ばれていて、当時の面影を残している建物なのだそうです。
この奥の方で、日本酒「末廣」は作られているのでしょうね。

この建物の右側は道路になっていまして、そこを撮影したのがこちらの写真になります。

奥の方に見える白い壁のところがおそらくは、酒蔵で、少なくともそこまでは敷地なのでしょう。
小諸市の大塚酒造さんといい、酒蔵にはやはり広い土地が必要なのですね。

 

〇 「居酒屋 会津」と「榮川 辛口」

…とホテル周辺の観光をしながら、その日のお夕飯を食べるためのお店を探します。

が、一人だとなかなか、お店には入りづらく、ググりながらうろうろとし、ようやく入ったお店が、先ほどの清水屋跡の近くにあるお店、「居酒屋 会津」。
無念なことに、お店の外観、内観ともに写真撮ってませんでしたTT

 

お店は、鄙びた感じの街の居酒屋さんというところでしょうか。
1,000円で、日本酒2合、刺身2点盛、お通しが出てくるというお財布にやさしいお店です。

この日は20時頃にお店に入ったのですが、お客さんはほかに3名、店主さんが一人で切り盛りしていました。

席について、日本酒「榮川(えいせん) 辛口」を頼みます。
「榮川」は会津の磐梯町にある「榮川酒造」さんのお酒です。
常温の辛口普通酒でしたが、嫌な感じの味は全くなく、普通にいけるお酒です。

 

さて、こちらの店主さん、気さくな方で、管理人にも話しかけてきてくれて、会津に来たらココ!というところを教えてくれました。
大内宿塔のへつりと、朝から喜多方ラーメン
管理人、両親がラーメン屋をしていたので、比較的色々と知っていると自負していましたが、24時間営業の山岡家を除いて、朝からやっているラーメン屋というのは聞いたことがありませんでした。

ラーメンのスープの仕込みには時間がかかるので、たいていのお店は11時から営業を開始しているはずです。
それが、喜多方では朝7時から営業を始める店があって、有名な「坂内食堂」、「まこと食堂」などのお店は7時代に開店しているのだそうです。

そんな話をしながら一時間ほどして、そろそろ店じまい、ということで、管理人もお勘定してお店を出ました。

 

まだ、飲み足りないな、ということで、もう一軒行こうと思い、居酒屋会津からは東の方、おそらくは、会津若松市の繁華街と思われる、「馬場町」の方に向かうことにしました。

というところで、続きはまた次回にしたいと思います。
ちょっと、歴史話が長くなりすぎたので^^;

 

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