本丸から南千畳、そして竹田寺町通りへ ー竹田城跡を征く③

 

こんばんは。
このブログをご覧くださいまして、ありがとうございます。

今回は、前回に引き続きまして、竹田城跡を訪れたときのお話です。

前回は天守台に上って、竹田城の案内をしている方に伺ったお話を少し記したところで終わりました。
今回は、天守台を降りて、城の南側にある南千畳を歩き、下山するところまでのお話です。

 

以後の話、縄張図があった方が理解しやすいので、参考まで、前回掲載した竹田城の縄張図をここに掲載します。

 

Contents

〇 本丸から南千畳へ

竹田城には順路があるのですが、天守台に上ったら、次は一旦、二の丸へ戻って、城の西側の細いところ(平殿というようです。)を通って南千畳へと向かいます。
上掲の縄張図を見ると、確かに、南千畳の方からは回り込まないと本丸に行けないようになっていますね。

これは、北千畳側からは、大手門、三の丸、二の丸、と防御力の高いところを通らないと本丸にたどり着けないようになっているのに対し、南千畳側は地形の関係で、南二の丸しか防御施設を配置することができなかったことから、本丸にたどり着くまでの距離を長くするために、敵を回り込ませるように石垣等を配置したのでしょう。
この辺りに、城の設計者の深慮が見られますね。

 

さて、それでは、天守台を降りて南千畳に向かいます。

天守台、上から見ると結構な高さがあることがわかりますね。
下りた後、山の方に向かって石垣が連なっていますが、これが南千畳です。

 

先ほども書いたように、本丸から南千畳へは直接いけませんので、一旦、二の丸へ向かいます。

 

そして二の丸から、南千畳に通じる、「平殿」というところを進んでいきます。

 

動画の半ばほどのところで、石垣の下の方に平らなところが少しだけ映っていたと思いますが、こちらが「花屋敷」という曲輪で、城の西側の防御施設です。
残念ながら、こちらへの立ち入りは現在できないようです。

 

動画の最後、ちらっと箱が映っていますが、これが、縄張り図に載っている「AED」の箱です。
ここからが南二の丸の映像となります。

動画の最初の方に櫓台のような石垣が出てきます。
縄張り図を見ると、これがあることで攻城側は一旦、本丸の下に出ざるを得ず、出ると三方から囲まれて集中攻撃を受けてしまうことがわかります。

そして、動画の最後では、右手の南二の丸の石垣と左手にある櫓台のような石垣で通路を狭めています。
櫓台の置き方一つで攻めにくくなるわけですね。

 

〇 南千畳

この通路の向こう側が、南千畳です。

北千畳のように樹があまり生えていないこともあって、広く感じられます。

 

動画の終わりの方で、本丸の方を振り返る前に映っている山の谷間、真ん中の白く太い筋が円山川です。
その右側、山のふもとの辺りの白く太い線は「播但連絡有料道路」で、まっすぐに進むと姫路に出ます。

竹田城は1577年に、姫路城から出撃した羽柴(豊臣)秀吉の弟、羽柴(豊臣)秀長の軍勢の攻撃を受けて落城しています。
その時は、この方角(南)から攻め込んできたと思われますが、当時の城兵もここから、その軍勢の接近を確認したのかなと思うと、感慨深いものがあります。

こちらの動画は南千畳の南の端から、本丸の方へ向かって歩いているときの映像です。
南千畳から南二の丸への入り口、右側の櫓台があるから、城の奥へは容易に侵入できなくなっている様子がよくわかります。

また、画面奥のひときわ高い石垣が天守台で、そこまで石垣が連なっています。
この角度で見るとその連なり具合が威圧的で、攻める意欲が削がれるような気がします。

この城を歩いていて思ったのは、この石垣群までたどり着くだけでもかなり大変なのに、狭い山上に巧みに石垣が配置されていて、こんな城を落とせるものなのかな?というものです。

竹田城の石垣は「穴太積み」で、これは織田・豊臣家の城によく見られる石垣の積み方なので、羽柴秀長が攻めたときには、現在残っているような石垣群はなかったと思われます。
それでも、基本的な造り、縄張りはそれほど変わらなかったでしょうから、よくもこの城を攻略できたものだなあとつくづく思います。

 

そして、出口へ向かいます。

ここまでが竹田城跡になります。

 

〇 竹田寺町通り

この先はまた元の山道になっていまして、それをずっと下っていくと、

こちらの「表米神社(ひょうまいじんじゃ)」にたどり着きます。
こちらの神社は孝徳天皇の皇子で、新羅(7~10世紀の朝鮮)からの侵略軍を撃退した、「表米親王」をお祀りしている神社です。
面白いことに、こちらの神社には、土俵と観覧席(?)があります。

表米親王が相撲が好きだったから、なのだそうです。

 

そして、この神社の鳥居をくぐって左側に行くと、

竹田寺町通り、竹田城の入り口があった通りになります。

神社の鳥居の近くには踏切があって、そこを通ると車を停めてある駐車場への近道になります。
前々回の記事に載せた写真にも写っていたのですが、この通り、立派な土塀の建物があったので、それを見てみたいと思いまして遠回りだけど、この通りを歩くことにしました。

途中には、

と、どこかで見かけたキャラクターたちがいらっしゃいます(アメリカのネズミの方は、モザイク入れないと莫大な著作権料を請求されちゃうんでしょうか^^;)。
そして、ピ〇チューの右にある立派な白い壁のお屋敷、こちらは、

「善證寺」というお寺です。
この善證寺から立派な造りの塀が連なっています。

善證寺の隣の隣には、

「常光寺」
竹田城の初代城主で山名宗全(応仁の乱の指導者の一人)の家臣、太田垣光景の菩提寺です。

常光寺のお隣は、

「勝賢寺」
先ほど竹田城は羽柴秀長が攻略したと書きましたが、その後、一旦、毛利家が竹田城を占領します。
しかし、1580年には再度、羽柴秀長がこの地に進出してきて竹田城を占領します。
その時に、秀長が竹田城に置いた城主、桑山重晴の長男夫妻の供養塔があるのがこちらのお寺です。

そのお隣は、

「法樹寺」
竹田城最後の城主、赤松広秀の菩提寺で、境内の裏手にその墓碑があるそうですが、元々は、赤松広秀の屋敷があったところのようです。
竹田城のような山城は、通常、山の麓に城主たちの居館が建てられていて、普段はそこで生活をし、戦闘の時に城に入って戦っていました。
山の上は生活しづらいですからね。

 

前回の記事にも書きましたが、この赤松広秀の時に竹田城は今日あるような姿になっています。
また、この人は善政を敷いて領民に慕われていたことから、竹田城の石垣は今日まで往時の姿を残しているということです。

赤松広秀は、関ケ原の戦いでは西軍側について、天橋立がある宮津市の隣、舞鶴にある田辺城攻めに参加します。
関ケ原の戦いの後は、広秀は東軍の亀井茲矩に誘われて鳥取城を攻めますが、この時に発生した鳥取城下の火災の責任を押し付けられて、徳川家康の命で切腹させられています。
そして、赤松広秀の死後、竹田城は廃城にされ、おそらくは存在していた櫓などが撤去されて、今日のような石垣だけが残された状態となったのです。

以上、竹田城を訪れた時のお話でした。

 

意図したわけではないのですが、記事の最後に竹田城の最後の話が来て、きれいに終わりましたね^^;

4回にわたって紹介してきましたが、竹田城、とにかく、素晴らしいところでした。

「天空の城」と呼ばれる所以の雲海に浮かぶ遺跡群から始まって、「日本のマチュピチュ」と称される石垣の連なり、その石垣の配置は城としての機能を発揮するために、自然を利用して巧妙に配置されており、その自然と人工の融合が、写真や映像に見られる壮観さになっていました、
それに加えて、この城に携わった、城主と住民の繋がりが、この城跡を存続させて今日私たちはその遺構を見ることができるわけです。
自然・技術・人の心、その三つがあるから、この城は人の心を打つのではないかなと、そんな風に思わせてくれる素晴らしいところでした。

機会があったらぜひ、皆さんも訪れてみてください。
その時は、この記事で紹介した歴史を少し覚えておいていただけたなら、知らずに見るよりももっと、この城のすばらしさを感じられるのではないかなと思います。
竹田城、この旅で一番の思い出となった素晴らしい場所でした。

 

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