天守台で知った竹田城跡の本当の素晴しさー竹田城跡を征く②

 

こんにちは。
このブログをご覧くださいまして、ありがとうございます。

 

さて今回は、前回、前々回に続いて竹田城を訪れた時のお話です。

こちらの画像は、料金所でいただいたパンフレットに載せられている竹田城の縄張り図です。
今回の記事を書いているときに、ふと思いつきまして、縄張り図があった方がわかりやすいなと思い、載せてみました。
この縄張り図も参照しながら読み進めていただければと思います。

ちなみに、通常、地図は北を上にして描かれますが、こちらの縄張り図は、「城の形」のイメージをわかりやすくするためなのでしょう、右下の方が北になっていますのでご留意ください。

 

さて、前回は、城の北側にある「北千畳」を歩いた動画を交えつつ、少しコメントを入れました。
今回も同様にして、三の丸、ニの丸、本丸、南千畳と紹介していきたいと思います。

 

〇 竹田城三の丸

まずは、三の丸です。

動画が始まってすぐのところ、道がジグザグになっていますが、これが「枡形虎口」です。
見てお分かりの通り、攻撃側がここを通ると前後左右の石垣から一方的に攻撃されるわけです。

そして、進んだ先には階段があります。
ここで管理人の進むペースが落ちていますが、これは、この階段が意外と急で、上りにくく作られているためなのです。
管理人の身長が174cm、戦国時代の平均身長が160cm弱と推測されているので、当時の人にとってはさらに上りにくかったことと推定されます。

動画の最後30秒くらいに出てくるところが「三の丸」です。
山の上に作られた城の廓なので、平地にある城に比べて狭い、小さいという印象があります。
しかし、眺めは抜群で、ご覧の通り、東南の方向から接近してくる軍勢をかなり遠くであっても見つけるることができたのでしょう。
ちなみに、この動画に写っている、画面奥へと向かっている道路が県道277号線になります。

 

〇 竹田城二の丸

次に二の丸へ向かいます。

動画は、三の丸の動画の最後のところを右に向いた後から始まっています。

歩いていく先に石垣が見え、道が左に曲がっています。
道を左に曲がると、視界が開けて山が見えますが、ここには往時には「二の門」と呼ばれる門が存在していたそうです。

また、動画ではちらりとしか映っていませんが、この左側にも石垣がありまして、ここも、三の丸や大手門と同じく、枡形虎口の状態になっています。
ちなみに、視界が開けたときに正面に写っている山の中腹が、雲海に浮かぶ竹田城を見るスポットの一つであり、前々回の記事でご紹介した「立雲峡」になります。

その後、道の先に石垣が見えますが、この石垣の上が竹田城の「二の丸」になります。
二の丸に上った後、左から右へ、方角的には、東から南へとカメラを向けています。
やや遠くに見える石垣があるところは「南千畳」と呼ばれる廓で、前回紹介した「北千畳」と対になっている一角です。

そして、その後に映っている高い石垣が、竹田城の天守台になります。

 

〇 本丸へ

本丸へ向かいましょう。

途中で振り返りをしているのですが、振り返った先にあるのは、「北千畳」そして、その先にある市街地は和田山町の街並みです。

動画最後に映っている、階段の先にある階段が天守閣の石垣に上るための階段です、が、まだ本丸には入っていません。
この時、人がいたので、一旦、撮影を中止したのです^^;

で、その人がいなくなってから本丸に到着するところからの動画がこちらです。

天守台からの眺め、いかがでしょうか。
縦長の動画なので伝わりにくいですが、実際にここに立つと、360度、遮るものがない、壮観な眺めが広がっています。

 

〇 竹田城の天守台

さて、少し、動画と、竹田城天守台に関するお話を。

まず、最初の数秒映っている平地が本丸になります。
山城の本丸なので、狭めの印象です。
そして、そこにある石垣が竹田城の天守台です。

縄張り図を見ると、この天守台そのものには階段がないため、往時には、おそらくは南側にある石垣部分か、動画の最後の方にちらっとだけ映っている、北側にある少し大きめの櫓台にあった(と思われる)櫓から天守台に入ったのかと思われます。
現在は、石垣保護のためもあって、動画のように階段が設けられているのでしょう。

 

さて、天守台といえば天守閣です。
現在はご覧の通り石垣だけですが、竹田城が城として使われていたころには天守閣があったようです。

こちらの写真を見てみると、

これは天守台の真ん中付近にある基準点ですが、画像の右上の方に石がぽつんと映っています。
おそらく、これは、建物を建てるときに用いられた礎石で、ここに建物の柱があったのではないかと想像されます。

 

〇 竹田城跡の本当のすばらしさ

ところで、動画の途中で人の声が聞こえますが、こちらは、竹田城の維持管理をしている方たちの無線の声です。

天守台には女性の方がいらっしゃって、その方に竹田城のことについて色々なお話を伺いましたが、特に印象に残っているお話は、この竹田城の石垣がこれほど見事な状態で残っているお話についてです。

こうした歴史遺産というのは、一般に、人間が自ら破壊しない限りはなくならないようなイメージを持たれる一方、遺跡がなぜ残っているのかというところには思いが行かない傾向があるように思われます。
歴史的遺産というのは破壊されなくても、放っておかれると、なくなったり土の下に埋もれたりしてしまうものです。

では、なぜ竹田城には、これほど見事な石垣が残っていたのでしょうか。
それは、竹田城下の人たちが、城跡の保存を続けてきたからです。

当たり前といえば当たり前ですが、今のように城跡が観光資源となって商売に結び付くという時代なら、城跡の保存に努めることなどたいして驚くべきことではありません。
しかし、竹田城は、江戸時代から300年以上、ずっと周辺の住民たちが城跡の保全を続けてきたのだそうです。

竹田城の城主(誰だったかはお忘れてしまいましたが、戦国時代には太田垣輝延、桑山重晴、赤松広秀と移り変わり、赤松広秀のときに現在のような城が完成したといわれています)は領民のために周辺の開発を進めると同時に、領民の楽しみのためにと、立雲峡に桜の木を植えた、という話が残っています。
そこから、かつての城主の遺徳を偲んで、住民たちが長く、城の石垣の保全を続けていたのだそうです。

経済的・個人的利益のためならば、人間は継続的に努力を続けようとするものです。
しかし、そうした利益もないのに何世代にもわたってそうした努力が続けられたというのは、本当にすごいことで、なんというのでしょう、こう、心が洗われるような感じがして、とても感動しました。

 

そうした話を聞いたうえで、こちらの写真のような、竹田城の石垣の連なりを眺めたとき、

単に建造物として素晴らしいだけではなく、人々の300年以上にわたる心のつながりがこの石垣には込められていて、それが何よりも素晴らしいのだな、と感じられました。

 

さて、今回も、気づいてみたら随分と長い文章になってしまいました^^;

ここまでで約3,000字となってしまいましたので、続き、本丸から南千畳までのお話は、回を改めて書いていきたいと思います。

それでは、次回もご期待ください。

 

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