日本酒の飲めるお店取材 in 小諸 本町 その5

 

こんばんは。

こちらのブログをご覧くださいまして、ありがとうございます。

前回は、小諸市本町にある「そば七」さんというそばのお店をとりあげつつ、小諸市で開催されている「お人形さんめぐり」にも触れました。

その時にも書いたのですが、その前に取材した蕎麦屋さん「菖蒲庵」さんや、小諸城の写真を追加で撮ってきました。
その追加写真を、以前書いた記事に追加して、若干文章に追加を入れてみました。
以下の記事が追加を加えた記事ですので、ぜひ、ご覧になってください。

今度の日本酒の飲めるお店取材は小諸市☆ ―第3回 小諸城址 二の丸、本丸―
日本酒の飲めるお店取材 in 小諸 ―菖蒲庵―

なお、3番目の記事に関しては、写真を追加したのに併せて、タイトルにも追加を加えています

今回は、これまで歩いてきた本町北国街道沿いにある情緒ある通りの北の終着点までを取り上げていきたいと思います。

「そば七」さんを出て右手を見ると、古美術屋さんがあります。

そのお向かいには、こんな看板が。

英語塾です。看板が指示している先を見てみると

蔵造りです。
英語教室まで、蔵造りになっているんですね!

そして、すこし北に進むと、こちらにも英語塾。

その先には、また骨董屋さんです。

お店の全景を見てみると

管理人の地元に、こんな感じの医院があったので、勝手に、こちらは昔、委員だったのかな、なんて思ってしまいます。

さらに進むと、

少し雰囲気の違う建物が。

こちらは、「旅籠 つるやホテル」です。
ホテルゆえに、すこし周りと感じが違いますが、1階部分は周りにあわせた外観です。

こちらの「旅籠 つるやホテル」さんは、1682年から、ここで営業をしている旅籠だそうです。
1682年というと、徳川綱吉が将軍となって間もないころ、江戸幕府が開かれて80年ほどです。
この頃には、参勤交代制が確立され、生産力が向上して経済活動が活発になり、遠隔地間の行商が行われていた時代です。

窓の格子のところに、解説文があるのですが、そちらを読んでみると、島崎藤村も宿泊した宿のようです。
姿かたちは変われど、300年以上続いているとは、すごいことですね。

ここからさらに北に進むと、昔のつるやさんの建物(現在はギャラリーとなっています)があります。こちらです。

こちらの建物は大正時代に建てられたものだそうで、俳人の高浜虚子が滞在したこともあるそうで、各部屋にはこちらの旅館に滞在した小説家や書家の書き残した書が飾られているそうです。

こうした、江戸後期~昭和初期の建物が立ち並ぶ本町の北国街道、その街並みもこのギャラリーの辺りまでです。
道はもう少し続いて右に曲がっていきますが、右に曲がる辺りからは、現代的な建物が立ち並ぶ市街地に入っていきます。

その、道が右に曲がるところにあるのが、こちら、

もう少し寄ってみましょう。

「天機山光岳寺」です。

お寺のHPによると、光岳寺は徳川家康の異父弟松平康元が、母(家康の母でもある)、お大の方のために千葉県関宿に建立されたのが始まりで、その後、松平家の移転とともに、岐阜県の大垣市を経て、1624年に小諸にやってきたそうです。

写真に写っている門は、元々は小諸城を守る門で「足柄門」と呼ばれていたそうですが、明治元年にこの場所に移築されたそうです。

確かに、守りの固そうな門ですよね。

この立派な門の前から、小諸市北国街道の町屋街が始まっている、そんな感じです。

 

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