奇岩立ち並ぶ「塔のへつり」、岩陰に祀られた虚空蔵菩薩

 

こんばんは。
このブログをご覧くださいまして、ありがとうございます。

 

今日の記事で5日連続のブログ更新、これまでの最長連続更新記録更新となります。
これも、ひとえに、会社が休みで、体調不良と金欠のためほとんど一日中家に引きこもっていたからです^^;
本当は、こうしてブログ書き書き、色々なところを旅してまわれるといいんですけどね。。。
などと思った一週間、正確には5日間でした。

 

〇 塔のへつりへ

さて、前回は大内宿についてのお話でした。
大内宿について語りつくしたわけでは全然ありませんが、管理人が見聞したものは一通り書いてあります。

まあ、時間に押されてあまりゆっくり見て回れなかったんですよね。
何しろ、この後、塔のへつり、飯盛山と見て、福島市に行く、という結構無茶なスケジュールを組んでいたものでして。
また来られるかわからないので、どうしても、詰め込んじゃうんですよね。。。

で、前回で大内宿のお話が終わったので、今回は「塔のへつり」についてです。

 

「塔のへつり」は大内宿からそう遠くないところ、というか、同じ南会津郡下郷町の中にあります。
電車で行くとすると、大内宿の最寄り駅、会津鉄道線「湯野上温泉」駅の隣の駅になります。
車で行くのであれば、国道121号線に出て南に進み、案内板に従って走ると、やがて、その隣の駅「塔のへつり駅」が見えてきます。

周囲とマッチした駅舎に電車ですよね。
ここをさらに進むと、ロータリーがあって、ロータリーの先には「塔のへつり」の入り口があります。

ロータリーの周りにはお店が並んでいます。
車はどこに停めたらいいんだろうと思って徐行していると、向かって左側に駐車場があって、おじさんが誘導してくれています。

車を停めると、気のよさそうなおじさんが、こちらの駐車場は無料ですよと告げてくれて、道案内と簡単な観光案内までしてくれます。
そして、最後に、よければ、うちのお店でお昼ご飯食べていってください、と、お店を紹介してくれました。

会津ではソースかつ丼が名物らしいのですが、こちらのお店のソースかつ丼は、生肉からきちんと調理して作っているそうで、他とは一味違う、とのことでした。

お昼は、会津若松市内で日本酒のありそうなお店で、と考えていたため、あまり興味がなかったのですが、無料で車を停めさせてもらったのだから、お土産くらいは買っていこうかな、と思いつつ、ひとまずは、塔のへつりを見に行くことにしました。

 

〇 奇観、塔のへつり

で、その「塔のへつり」というのはどういうものかというと、

 

この奇岩が連なる渓谷のことです。
「へつり」とは地元の言葉で「断崖」のこと、その断崖が一つ一つ独立していて塔のように見えることから、「塔のへつり」と呼ばれているのだそうです。
もちろん、これ、自然の力、河の水による浸食と風化の結果できたもので、国の天然記念物に指定されています。

一つ一つのへつりには名前がついているそうで、下郷町観光協会のWebサイトでその名前を確認することができます。
ただ、残念ながら、今では風化が進みすぎて岩の崩落の危険性があるようで、ほとんどのへつりには近づくことができません。

近づくことができるのは、先ほどの写真に写っている橋を渡ったところとその周辺にある岩のみです。

 

〇 岩陰の虚空蔵菩薩

橋から続く一本道をたどっていくと、岩の上に出ることができ、そこには

虚空蔵菩薩が祀られている岩陰があります。
虚空蔵菩薩とは広大無辺な知恵を司る菩薩で、明けの明星の化身・象徴とされています。

岩陰に社のようなものが造られていて、その中に虚空蔵菩薩像が置かれているのですが、薄暗いため、よく見えませんでした(それもあって、写真は撮影していません)。
周りにはおみくじが結ばれていたり、千社札が張られていたりするため、暗いところが苦手な人には、ちょっと怖いところかもしれません。

そんな暗いところに、明けの明星の化身、虚空蔵菩薩像が安置されている。
そういえば、聖書の中にこのような一節がありました。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

日本聖書協会『聖書 新共同訳』 ヨハネによる福音書1章1節

「初めに言(ことば)ありき」で有名な一節ですが、言の内に命があり、命は光、誤解を恐れずに単純化してしまうと「言≒命=光」から、「言=光」というところでしょうか。
虚空蔵菩薩の場合は「虚空蔵菩薩=知恵≒言」「虚空蔵菩薩=明けの明星=光」で「虚空蔵菩薩≒言=光」。

結構こじつけがましいですが、仏教でもキリスト教でも、言葉・知識を光ととらえているように考えることもできそうです。
哲学的思考を突き詰めていき、この世の真理に迫った時、人が感じるものは文明が違っても同じものになるのかもしれません。

西洋ではアリストテレスが『ニコマコス倫理学』の中で、勇気が過ぎれば蛮勇になり、勇気が足らなければ臆病となる、超過と不足を調整した中間の状態「メソテース」が大事である、ということを説きました。
東洋では孔子が『論語』の中で、弟子の一人に、「師と商(どちらも孔子の弟子の名前)とはいずれが賢いですか」と問われて、「師は賢すぎるし、商は足りない」と答え、「それでは、師がまさっているのですね」と弟子が言うと、「過ぎたるは猶及ばざるが如し(いきすぎることは足りないことと同様だ)」と答えていました。

あくまで管理人の感想ですが、哲学って、時代を下って現代に下れば下るほど、科学技術が発展して世の中が複雑になっていったため、思想も複雑化して、「哲学」と聞いたときに、うっ!と遠ざけたくなるような、難しくて何言ってるかわからない、いろんな時代、いろんな地域、いろんな人に特有のものの考え方になってしまっています。

しかしながら、時代をさかのぼって、世界四大源流思想(管理人が高校生の時は確かこう呼ばれていて、「ギリシア哲学」「ユダヤ・キリスト・イスラム教」「インド哲学」「中国思想」がそれであると言われていました)までいくと、その中で説かれていることには、先ほどのお話(「中庸」に関する話)のように、けっこう同じ心理、同じ認識に至っていると思われることが結構あります。

ちなみに、管理人が四大源流思想に関する古典で読んだことがあるのは、『ソクラテスの弁明・クリトン』『旧約聖書』『新約聖書』『大般涅槃経(岩波文庫では『ブッダ最後の旅』)』『論語』『孟子』のみで、あくまで、それらを読んでの感想ですので、あしからず。

話がだいぶそれましたが、この像を安置した人たちは、『ヨハネによる福音書』の作者が感じたように、奇岩が作り出した暗い闇の中に知恵の光を灯そうとしてこの虚空蔵菩薩像を安置したのでしょうか。
ふとそんな妄想を抱かせてくれる塔のへつりの虚空蔵菩薩なのでした。

 

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