近代日本が生まれた場所、京都御所の心和ませる建物と庭園

 

こんばんは。
このブログをご覧くださいまして、ありがとうございます。

さて、今回は京都御所に行った時のお話の続きです。
最初に書いたときには1つの記事の中に以下の文章もあったのですが、6,000字超と長くなりすぎたので、記事を改めました^^;
紫宸殿」を見た後からスタートです。

 

Contents

〇 清涼殿

「紫宸殿」の後、順路に従って歩いていくと、次に訪れるのはこちら、

清涼殿」、天皇の日常のお住まいです。
こちらの建物内にうっすらと見える白いものは、清少納言枕草子に出てくる「昼の御座」というもので、

天皇は普段はこちらにいらっしゃったそうです。

 

〇 小御所と小御所会議

清涼殿の次は、

小御所」です。
パンフレットによると、こちらは、鎌倉時代以降建てられるようになった御殿で、江戸時代は将軍や大名などの武家との対面や儀式の場として使用されたそうです。

高校の教科書に出てくる、1867年の大政奉還を受けて出された王政復古の大号令に基づいて、今後の日本が採るべき方針を決定するために最初に開かれた会議、「小御所会議」が開かれたのがこちらの建物です。

この会議では、討幕派の薩長と幕府寄りの土佐・越前・尾張藩主が激論を戦わせました。
しかし、結局は薩長の主張が通って、幕府側を挑発するために前将軍徳川慶喜に対して「辞官納地」、すなわち、将軍職だけでなく、慶喜の朝廷における官位と領土も差し出すように要求することが決まりました。

これに対して、慶喜ではなく、幕臣たちが激高し、大阪に結集していた幕府軍は薩長の横暴許すまじということで、即座に京都に攻め上って戦おうとします。
しかし、戦闘による内乱化を避けたい慶喜はあの手この手を使って幕臣たちを押しとどめます。

そこで、薩摩・長州側、来年の大河ドラマの主人公、西郷隆盛は、幕府側から手を出させて討幕の口実を得るために(政権を返上しておとなしくしている人を自分たちの方から攻撃したら、さすがに世間からの支持を得られないと考え、攻撃の口実を作りたかったのでしょう。)、一計を案じます。

るろうに剣心」に出てくる相良左之助
彼の敬愛する相良総三らを使って、江戸で、放火、略奪、強盗を行わせました。
幕府側はそうした行為を行った者たちを捕縛しようとしますが、彼らは薩摩藩邸に逃げ込みます。
当然ながら、幕府側では、これは薩摩の仕業と知って、薩摩藩邸を攻め落としました(江戸薩摩藩邸焼討事件)。
こうした事態に、大阪にいた幕府軍(第二次長州征伐の際に大阪に来て、征伐中止後も大阪に駐留していました)は激高して、慶喜でも抑えられなくなりました。

1868年1月、幕府軍は、薩摩の横暴を質すとして討薩表を掲げて京都に向かい、鳥羽伏見を固めていた薩長軍と開戦します。
兵数では圧倒していたものの、武器や組織などが戦国時代からそれほど変わっていなかった幕府軍に対し、最新の武器・組織で戦った薩長連合軍は、様々な幸運も重なって勝利をおさめます(鳥羽伏見の戦い)。

この戦いをきっかけに、旧幕府勢力vs新政府軍の戦いが始まります。
しばらく前の記事にも書いた、会津戦争などを経て、1869年5月に函館五稜郭に立て籠もった旧幕府軍が降伏するまで、「戊辰戦争」と呼ばれる一連の戦いが繰り広げられていくのです。
ある意味で、今日に続く日本の歴史が造られた場所、といってもいいかもしれませんね。

 

〇 京都御所の庭園

そんな、小御所ではありますが、その前には、

このような美しい庭があります。
さらに進むと、

こちら「御常御殿」といいまして、1590年(豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼして天下を統一した年ですね)以降、作られるようになった天皇のお住まいで、三種の神器もこちらに納められていたそうです。
こちらの御殿の前にも、

美しい庭園がありまして、その中には、

こちらのような、遠目には比較的粗末な建物が建てられていました。
いや、粗末な建物なのか実際のところはわかりませんが。

仮にそうだとして、そういえば、あの贅沢な暮らしをしてフランス革命を誘発したとされているマリー・アントワネット
彼女もあのヴェルサイユ宮殿内に与えられた「プチ・トリアノン宮殿」内に、「ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ」と呼ばれる、農村に見立てた小集落を造って、その場所を最も愛していたそうで。
こうした庭園や、比較的粗末な建物というのは、我々には想像もできない、国の最高権力者に襲い掛かる強いストレスを解消するために必要なものなのかなと、ふと思ったりしました。

管理人も、会社で周りの人から真剣に心配されるほどのストレスが日々かかっていますが、土日に荒川のスーパー堤防の上を自転車で走っていると、広い青空や河川敷の雑草の緑、夕焼け空など、自然が感じられてその時は心が晴れて元気が出てきます。
やっぱり、自然て、人間の心に必要不可欠なものなんでしょうね。

 

御常御殿を過ぎると見学コースは終了で、

こちらの門を通って入り口に戻ります。

 

その後は、御所の北側から東側へ、そして建礼門の前まで来て元来た道を進みます。
その先をまっすぐ進むとある「九条池」を渡ってから冒頭の京都御苑入り口まで戻りました。

そこから烏丸通を南へ、お店を探しながら歩いたものの、思っていたほどの収穫をあげられませんでした。
路面店の飲食店があまり見つからなかったのです。
そして、五条通りを通って堀川通まで戻り、この日の宿泊地、三重県の鳥羽市に向かって車を出発させました。

 

〇 結びに

今回の記事、振り返ると、偶然にも時事ネタがちょうどよく入っていましたね。
天皇陛下の譲位、即位の礼、高御座。
だけでなく、るろうに剣心まで^^;

本来、この記事は2か月前くらいに書いているはずだったのですが、本業が忙しくて書く暇がなく、こんな時期に。
しかし、そのおかげでこんなタイムリーな記事になりました。京都御所の中を見学できたのも、本当に偶然でしたし。

まあ、タイムリーな記事を書けても、それだけで何かあるわけではありません。
しかし、もし、仮に、この記事が時事ネタでの検索でヒットして、たまたま見てくださった方が、このサイトにも興味を持ってくださり、そこからこのサイトを使っていただけるようになったとしたらいいな、などと妄想してしまう管理人。

そういえば、建礼門の前にたどり着いたときに、御所の上空を鷹が飛んでいまして(最初に載せた建礼門の写真にも点として映っているのですが)、これは何かの瑞祥かな、などと思っていたことを思い出しました。

 

ま、そんなことはさておいて、京都御所、見学できて本当に良かった、ありがたかったです。

そういえば、中学時代に管理人は初めて京都に来ましたが、東寺とか金閣寺とかを見た覚えはあるのですが、京都御所には来た憶えがありません(その頃は、京都御所ってこのように中を見学することができなかったのかもしれないですね。もしそうなら、本当に、こうして見学させてもらえるようになって、有難いことです)。

高校生になると古文で、古文常識で「紫宸殿」「清涼殿」「昼の御在」や「建礼門」などが出てきます。
が、当時は何のことやらさっぱりわからぬままに、とりあえず入試のためだけに空暗記していました。

せっかくなら、実際の御所を見学すれば、古文も勉強しやすいだろうに、と思う一方で、古文で勉強させられて、古文から離れたからこそ、実際の御所を見て、そういう実益がないから、色々な建物に素晴らしいなと感動できたり、こんな風に色々調べて書き留めたりできるのかなとも思います。

人間、これをやらなければいけないと義務感にかられると、色々なものを見失いがちになる。
却って、そのやらなければいけないことが、どんどんと出来なくなってしまい、そのものが持つ本当の良さを見失って、さらに離れていってしまうという悪循環を生み出すことがある。

もし、そんな状況に陥っているのなら、義務を少し忘れて、そのものをありのままに見つめて、その良さを探ってみる。
そうすれば、そのものの良さが浮かび上がって、良さに気づき、そこから悪循環を脱出できるのかもしれない。

そんなことをふと思わせてくれた、京都御所の美しさでした。

 

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