明智光秀の居城・福知山城。光秀の遺徳が残る城

 

こんにちは。
このブログをご覧くださいまして、ありがとうございます。

さて、今日は前回の続きで、福知山を訪れたときのお話です。

 

Contents

〇 宮津から福知山へ

観光船を降りて天橋立駅の周辺を散策した後、車に戻って福知山に向けて出発します。

その前に、宮津の酒蔵「ハクレイ酒造」さんを見学しようかなと思って、宮津市内をしばらく走ったのですが見当たらず、ついでに、宮津城にも行こうかなと思ったのですが、こちらもすぐには見当たらなかったため、当初予定通り福知山に向かうことに。

 

来るときは大雨の影響で京都縦貫道が通行止めになっていましたが、時間が経ったから大丈夫だろうと思ってICにいってみると、やはり通行止め。
降水量が多いから通行止めではなく、大雨の精で道路に問題が発生したために通行止めになっているようでした。

やむなく、一般道を通って舞鶴大江ICまで行くことにしました。
行き方は二つ、遠回りになるものの、来た時の国道を逆にたどるか、近道の山道を突っ切るか。

ナビに経路をお任せすると、山道を突っ切るルートばかり。
同じ道を行ってもつまらないので、大江山近くを突っ切る道、府道9号線を通るルートを選択します。

このルート、途中で府道を外れて細い道を通るルートを案内されたのですが、この道が、もう、何と言いましょうか、車一台分の道幅しかない山道、横は崖だし、勾配はきついし、大雨の影響で崖から水や泥が流れているというかなり厳しい道でした。
普段運転していないのに、こんな道でも特に問題なく下れる管理人、やっぱ、車の運転うまいんじゃ?などとちょっと得意になりながらかけおりました。

このルート、少し寄り道をすれば、酒吞童子伝説で有名な大江山に行けたのですが、スケジュール上、福知山観光を翌日に回すことができなかったため、そちらは断念して、福知山を目指します。

 

〇 福知山到着

今回の旅、一番最初に天橋立に行っていますが、実は、本来の目的地はここ、福知山、福知山城だったのです。

管理人、5月にスマホを買い替えまして、その時に初めてタブレットを持つことになったのですが、その時セットで、某携帯キャリアのコンテンツ、dマガジンが付いておりまして。
dマガジンで見られる雑誌に「歴史人」というのがあるのですが、その中にあった明智光秀と福知山の記事で、「福知山には光秀の遺徳が今も残っている」的なことが書いてあるのを読んで、行ってみようかなと思ったのが今回の旅のきっかけだったのです。

で、福知山に行くなら、その周りにも行ってみようということで、前回の天橋立、そして、次回の竹田城がスケジュールに入ってきたのです。

これら全部を回ろうと計画して、翌日朝に竹田城、午後大坂、と予定を組んであったので(地図だけ見るとそれほどでもないのですが、実際にやってみるとなるとかなり無謀な予定の組み方です^^;)、福知山観光をするならこの日しかなく、それ故、大江山はパスして福知山に向かった次第です。

 

さて、舞鶴大江ICから京都縦貫道に乗って、綾部市の辺りで舞鶴若狭道に乗り換え、少し走ると福知山です。
福知山ICで下りて市街地に向かってしばらく走ると、福知山城に到着します。

お城脇には無料の公共駐車場がありまして、そこに車を停めて見学ができます。
こちらは、その駐車場近く、城の東側から撮った福知山城。

ここの東から北にかけては川が流れています。
周囲は平らなのですが、この天守閣のあるところは小高い山になっています。

入り口のある北の方へしばらく歩くと、

すごい橋がΣ( ̄□ ̄ )!!

横に回ると、こんな感じです。

江戸時代に書かれた日本橋のような橋ですが、さすがに、これは現代に作られた橋でしょう。
石垣の造りを見ると、右側の城の内部の方が標高が高くなっているし、そもそも、敵の接近を防ぐための川に橋を架けたら川の近くに城を作った意味がなくなってしまうので、ここに橋があったようとは思えません。

 

〇 福知山城

などと思いつつ、道路に沿ってしばらく進むと、

ここが現在の福知山城の入り口になっています(左側にあるのは橋で、この写真の反対側を走る府道55号線にかかっている橋です)。
この道を進んでいきます。

この福知山城は、明智光秀が1579年に建てたお城で、その縄張り、城の建物等の配置は明智光秀の頃から変わらないそうです。

姫路城や江戸城などの江戸時代初期に経済力の大きな大名によって建てられた城に比べると、それほど大きな城ではなく、構造も複雑ではない印象を受けます。
しかし、ここは本丸の直下ということを考えると、自然の地形を利用して小高い山の中腹を遠回りさせつつ攻撃を仕掛けられる、巧妙な仕掛けになっていることがわかります。
なにしろ、ここから攻撃を受けるわけですから、

さらに進むと視界が開けてきて、

この先を少し行くと、

天守閣に到着します。

 

〇 現存天守12城

こちらの天守閣は江戸時代からありそうなたたずまいですが、

こちらの案内板にあるように、俗にいう復興天守というもので、図面などの史料を参考に復元された鉄筋コンクリート造りの天守閣です。

 

以前にも書いたかもしれませんが、現在、日本にあるお城で、江戸時代から残っている天守閣(現存天守)はわずか12しかありません。
その12の城とは、

1. 松江城(島根県)
2. 丸亀城(香川県)
3. 松山城(愛媛県)
4. 宇和島城(愛媛県)
5. 高知城(高知県)
6. 備中松山城(岡山県)
7. 姫路城(兵庫県)
8. 彦根城(滋賀県)
9. 丸岡城(福井県)
10. 犬山城(愛知県)
11. 松本城(長野県)
12. 弘前城(青森県)

で、松江、姫路、彦根、犬山、松本城は国宝、その他は重要文化財です。

天守閣は周囲よりも高い場所に建てられた高い建物なので、雷が落ちやすく、落雷による火災で焼失したり、火災で焼失したり、地震で倒壊したりで、江戸時代の終わりまでにも結構な数の天守閣がなくなっていたようです。

そして、明治時代に入ると、城のある場所は政治・経済の要衝で、軍隊の駐屯地や役所の建物を置くのに最適だったため、次々と城は破却されてしまいました。
さらに、昭和になると、アメリカによる無差別絨毯爆撃で、天守閣が焼失してしまいました。

上記12城のうち、姫路城のある姫路市も爆撃の対象になったのですが、姫路城は奇跡的に焼失せずに現在まで残って、国宝、そして世界遺産になりました。
戦争に備えた建物が戦火を生き残って人類の遺産となったという、とても意義深い建物なのです。


※改修前の2009年に撮った写真です^^;

 
福知山城の天守閣は、明治時代まで残っていました。
しかし、廃藩置県後の1873年に建物は解体されてしまい、その後、先ほどの写真の看板に書かれているように復元されたのだそうです。

「復元」というと、現存天守に比べたら、という感じがどうしてもしてしまいます。
しかし、天守閣が残っているのは運がよかった、どちらかというと奇跡に近いものであり、また、復元天守を建てるのにも多額のお金や入念な研究・調査が必要で、地元の人たちの熱意・努力もないと実現できないものです。
そういうことまで考えると、やはり、復元であろうと、天守閣というのは特別な存在なのだなと思ってしまいます。

 

〇 福知山城本丸と天守閣

さて、だいぶ話がそれましたが、元に戻ります。

この天守閣の左手(西)側は狭いながらも広場になっていて、記事の最初に載せた写真はこちらから撮ったものです。
右手(東)側にいってみると、

井戸と神社、それに左の方に看板があります。
井戸の方は、「豊磐井(とよいわのい)」といって、

50mもの深さのある、城郭の本丸内にある井戸では日本一の深さを誇る井戸だそうです。
また、神社の方は「朝暉神社」といいまして、江戸時代に長く福知山一帯を治めた朽木氏の初代藩主朽木稙綱を祀った神社だそうです。
看板は、

このように天守閣の入り口に置かれているものでして、明智光秀とその妻熙子で、明智光秀を主人公にした大河ドラマを!という運動の一環のようです。
まあ、コメントは差し控えましょう^^;

 

この天守閣の中は資料館になっていまして、江戸時代の福知山などを紹介する展示や、伊達政宗(あのダースベーダーみたいなマスクに長い三日月がくっついている兜。というか、ダースベーダーのマスクのマスクはこの兜を参考にしています)や真田幸村の兜(鹿の角がつけられた赤い兜)など、戦国時代の武具が置かれていました。

そして、最上階は展望代になっているのですが、残念ながら、天守閣内は撮影禁止。
代わりに、本丸からの景観を載せておきましょう。
こちらは東南の方角の眺めです。

 

〇 光秀の遺徳

一通り見て回った管理人、福知山城周辺に日本酒飲めるお店ないかなと調査を始めました。
すぐ近くには市役所もあるのですが、飲食店はそんなに見当たりませんでした。
車を停めた東側の駐車場のすぐ隣には、

「ゆらのガーデン」というきれいな広場があって、

その景観にマッチした素敵なお店がありました。
周辺は住宅地なのでなかなか難しいですが、お城周辺に、こういったお店や、町屋風なお店が増えると、福知山城を訪れたときの楽しみが増えていいんじゃないのかな、などと思います。

福知山城は、江戸城や大阪城、姫路城などに比べるとずいぶんと小さなお城です。
戦国時代、戦いが絶えなかった時代に建てられたお城だけあって、実戦本意でコンパクト、防御力の高そうなお城でした。
本当に明智光秀が設計したのかはわかりませんが、そうだとして、城のある場所といい、櫓や城壁、通路の配置といい、彼の能力の高さが端々からうかがえました。

そして、城の石垣などの保存状態は大変良い状態だと思います。
次回の記事でも書く予定ですが、明智光秀が善政を布いたことから福知山では今に至るまで、光秀への崇敬が強く、それゆえに、彼の築いた福知山城も大切に保存されてきたのでしょう。
それが、大河ドラマの招致活動にも表れているのかもしれませんね。

400年以上の歳月を超えて、なお愛される。
明智光秀というと本能寺の変、という連想が働いてどうしても評価が下がりがちになりますが、彼が治めたこの地を見ていると、彼が信長を討ったのには、民にもかかわる何か深い深い意味があったのかなと、ふとそんなことを思ってしまいました。
その謎が解かれる日がいつか来るといいなと思いつつ、今回はこの辺で終わりにしたいと思います。

 

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