現代から過去へタイムスリップ!?会津の宿場、大内宿を行く

 

こんばんは☆
このブログをご覧くださいまして、ありがとうございます。

 

今日で三日連続のブログ更新です。
これもひとえに、ゴールデンウィークなのにお金と健康の問題で、お家に引きこもっている賜物です^^;

 

Contents

〇 大内宿へ

さて、前回は、居酒屋2軒をはしごして、ホテルに戻ってぐっすり眠ったところでお話が終わりました。
今回は、その翌日のお話。

ホテルのブッフェ形式の朝食で、こつゆや会津産のはちみつなど、地元の食材・料理をたっぷり堪能した後、9時頃にチェックアウトしました。
地元のものにこだわった、観光客にとってはとても嬉しいホテル、また来たいな、と思いながら、愛車に乗って、南の方に向かいます。

目的地は「大内宿」。前日、「居酒屋 会津」の店主さんが教えてくれた観光スポットです。
行く前に聞いていたのは、大内宿というのは、昔の茅葺屋根の民家がそのまま残っている、かつての宿場町、というものでした。

 

ナビの誘導に従い、県道131号線を南に進んでいきます。
この道はカーブが連続している道で、昔、地元群馬の秋名山、もとい、榛名山妙義山の峠道を、普通の人よりは速いスピードで上り下りしていた管理人、うきうきしながら、エスティマを走らせます、あくまで制限速度内で^^;

そうして、峠を越えて下っていくと、大内ダム湖が見えてきます。
こちらは、ダムの上の道路から撮った写真。

同じところから、大内宿のある、と思しき方を撮った写真がこちら。

山のふもとに集落っぽいのが見えます。
その集落と思しきところ目指して、ダム湖からさらに進むと、前方に交通整理をしている人が立っていて、誘導棒を振っています。

車を停めて、乗ったまま話を聞くと、大内宿には、北と南に駐車場があって、観光バスや観光客は普通、南にある駐車場に車を停めて観光をするそうなのですが、その南にある駐車場がいっぱいで入れないから、北の駐車場に止めてほしいとのこと。
道路の右側を見ると、砂利の駐車場があります。
特にこだわりもない、そもそも事前に色々と調べていないのでこだわりようもなかったので、北側の駐車場に車を停めることに。

 

〇 大内宿到着

この北側の駐車場から大内宿までは少し距離があります。
しかも林道だったりするので、この日は曇り時々雨だったこともあり、地面がぬかるんでいて少々不便だったりします。
それでも、10分ほどで到着します。

選択するルートにもよりますが、山の上に出るルートを選択すると、こんな光景が見られます。

鈍色の空、木々で前方が遮られた道を進んだ後にこの光景です。
一瞬、江戸時代にタイムスリップでもしたのか!?と思ってしまうような驚きがありました。ちなみに、一般的には、南側から大内宿に入ります。
その南側から入った場合に最初に目にする光景はこんな感じになります。

どちらがいいかは人それぞれでしょうが、私は、北側から入って本当に良かったな、と思っています。

 

〇 大内宿を開いた保科正之

ここでちょっと、この大内宿の歴史について記しておきましょう(Wikipedia大内宿観光協会のWebサイト、大内宿にあった案内板などをもとにしています)。

大内宿は江戸時代、1643年ころ、会津若松城と日光までをつなぐ会津西街道(下野街道)の宿場として開かれました。
1643年とは、徳川家光の異母弟で、4代将軍家綱時代に幕府の重鎮として政治を取り仕切った、保科正之が会津藩主となった年です。

この保科正之は、2代将軍秀忠の子として生まれたものの、恐妻家の秀忠が侍女との間に儲けた子供だったため、密かに信濃高遠藩主の保科正光に預けられて育てられるなど、苦労して育ったためか、実直で有能な人でした。
後に、彼の存在を知った徳川家光は彼の人間性と能力を評価して引き立て、正四位下左近衛中将兼肥後守の官職と、高遠藩3万石から会津藩23万石の領地を与えました。

家光は、死に際して、まだ11歳だった子の家綱の将来を案じて、正之に「肥後よ、宗家を頼みおく」と言い残して亡くなりました。
これに感激した保科正之は、生涯、家綱を補佐して幕政を主導するとともに、会津藩の家訓(『会津家訓十五箇条』)を制定し、その第一条に、「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記しました。

この家訓が幕末まで守られ、幕末の会津藩主松平容保は、滅びゆく幕府の要職について幕府のために全力を尽くし、それが結果として、新政府軍の会津侵攻を招来して、会津の人々に大きな苦難を与えることになってしまいました。

ちなみに、保科正之は幕府から将軍家の親戚であることを示す「松平」姓を名乗ることを許されていましたが、養父の保科正光に育ててもらった恩を終生忘れず、自身は「保科」姓を名乗り続け、正之の子の代から「松平」姓を名乗りました。
保科正之の人間性を表すエピソードです。

 

〇 大内宿の繁栄と衰退、そして保存

。。。話がだいぶ逸れましたが、その保科正之が会津藩主となった年にこの大内宿は開かれました

これは、おそらくは、上のやたらと長くなってしまった保科正之の会津藩主就任とリンクしています。
上記のように、保科正之は家光に引き立てられていたため、江戸への参勤を早くするために、距離的に最短となるこの街道の整備が行われました。
また、大内宿は会津若松城から5里(約20km)で、管理人も通った山道を下ったところにあったため、第一日目の宿泊地として大内宿が開かれたのでしょう。

事実、大内宿には本陣脇本陣という、大名専用の宿泊施設などが置かれていました。

そんなわけで、たぶん、保科正之の江戸・会津往復用の宿場町から始まって、物流の中心地ともなって大内宿は大いに栄えたそうですが、その後、自然災害で街道や宿場町が水没してしまい、その間の代替路として開通した街道(会津中街道)がメインストリームとなってしまうなどがあって、次第に賑わいが失われていったそうです。

戦後、電化が進むなどしたが街並みは残され、昭和40年代頃から、研究者が当地を訪れて調査・研究を始めるようになると、大内宿の街並みが評価されるようになりました。
その後、マスコミの報道などを通じて一気に有名となり、観光客が押し寄せるようになったそうです。

現在では観光地化されていますが、その過程では、街並みを残すことによる不利益をめぐって、住民と行政や外部の人たちとの間で色々とあったようです。
そこで、1980年に「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定されて、街並みを保存する方向に一本化され、現在のように良好な保存がなされているそうです。

 

歴史的な町並みを残す、というのは、外部の人的には歓迎ですが、そこに暮らす人からすると、便利な生活を制限されるということにもなります。
実際、大内宿でもその辺の折り合いがつけられているようで、たとえば、こんな光景が見られます。

道の両脇ではこんな光景も見られます。

こちらは道の両脇に流れている用水路で、あちこちで、ラムネを冷やしていました。
現代的なものもなるべく目立たないように共存している、古いものを残すために、ここに住む人たちが知恵を出し合った結果なのでしょうね。

さて、今回は、歴史の話が長くなりすぎたのでここまでにして、次回、大内宿についてもう少しだけ書いていきたいと思います。

 

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